フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

“その私”は“どの私”?

結局、私が選んだことやもんね

  ・自分の思いとは違う生活
  ・自分の思い・考えが伝わらない関係
  ・自分の内と外が乖離していく感覚
  ・・・・


そんな状況を選んでいるのは、他ならぬ自分だ、と言う。
誰かに強制されたわけでも、脅迫されたわけでもない。
“自分が選んだ”結果だから、“仕方がない”と。


果たしてそうなのか?


“選んでいる”のは、今此処にいる自分なのか?
「今の自分」の皮を被った「過去の自分」が
選んでいる、選び続けているだけだとしたら?


場面場面で、カードを選択しているのは
「今此処にいる、現時点の自分」でなく
いくつもの過去からやって来た「過去の時点の自分」だったら・・・。
1歳の私、3歳の私、5歳の私・・・
小学生の私、中学生の、高校生、社会人・・・


“無意識のうち”に
【今の私】が「過去の私」に乗っ取られているのだとしても
仕方がない、とつぶやき
あきらめ続けるだろうか?