フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

「できる」「できない」の定義

先日、ある講座での問いかけ。

みなさんは
どんな時「出来る」と思い
どんな時「出来ない」と思いますか?

この問いへの私の答え
  楽にしんどくなく進められそうなら「出来る」
  苦労が多過ぎる、負担が多すぎるなら「出来ない」


ある人の答え
  やってみよう、やってみたいと思うことに
  手が届いた時点で「出来る」
  手が届かなければ「まだ、出来ない」


同じ言葉に対する見方・考え方の違いがあることに、ここでも驚きました。
フェルデンクライスのレッスンを通して、
  ・動きの指示に対する参加者の解釈の違い
  ・レッスンでの肉体的な感覚の違い
を見たり・聞いたり・感じたり…と色々しているのですが、まだまだ驚くのです。


先の問いかけへの答えが
私は、「そのことをやり遂げる」「進めていくプロセス」「ゴールの形」に目が向いていたのに対して、
もう一人の方は「始まり」「スタート地点」に意識があります。


もう全然違うわけです。
もし、こういう二人が会話していたら、かみ合わなくなってきます。
何かを進めていく時、わざわざ
あなたの「出来る」「出来ない」の定義ってどんなの?
と確認して始めません。他の言葉についてもそうです。でも、もしかすると、少しだけ確認しておくことで、この後の時間が関係が上手く回るかもしれない。


同性だし、
同年代だし、
仕事も家族構成も似てる、
育ってきた環境や学校も似てる、
同じ言葉を話す…
でも感覚や価値観、解釈も似ている・同じである保証はどこにもないのです。


「同じ」を前提にしているのと
「ちがう」を前提にしているのでは、随分と変わってきます。