フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

「フェルデンクライス教室」か?〜習う・教えるvs感じる・気づく

フェルデンクライスのグループレッスンを指導していて思うのは

これって『教室』『レッスン』『講座』とはちがうな〜

です。

何々教室」は何々を習うのが目的です。
  ・受講者の何かが向上しないといけない
  ・教える側からすれば、向上させないといけない


フェルデンクライスのレッスンはどうか?
「フェルデンクライスを習う」のではないし
「フェルデンクライスを教える」のではないと思います。


グループレッスンに、動きの見本・お手本は存在しません。
言葉の指示を聞いて、それぞれの解釈で動いていきます。
「習う」(まねる)対象がない、のです。
そして、レッスン中に聞く言葉の代表は「感じる」「気づく」です。
感じた結果、気づいた結果、何かが向上する可能性はあります。
でも、その「何か」が何なのかは
レッスン参加者も指導者も予測がつきません


指導者が「参加者の何かを向上させなければ…」と考えていたら
そのレッスンは上手くいかないでしょう。
変な“レッスン”です。
指導カリキュラムや到達目標はありません。
レッスンを何回受けたら「何々ができる」といった目安がないのです
発表会も展示会もコンクールも「級・段」などの認定もありません。


そういった種類の分かりやすさがない
フェルデンクライス・メソッドの「売り」は何なのでしょう??
一つは、

その人の身体や、考え方、感じ方…などの在り様を否定しない

ではないかと思います。


「矯正」や「枠にはめる」「型に流し込む」とは無縁の“レッスン”です。
  ・型にはめられることに疑問をもたない人
  ・枠がないと不安になる人
にとっては魅力を感じないかもしれません。でも、
   自分が意識して作ったわけでもない
   納得しているわけでもない枠・型に
   違和感を感じている人の心と身体にとって
フェルデンクライスは「何かが向上する」可能性があります。