『学び』の定義と『学びしろ』
Learning that is not the result changing behavior, is not learning.
(ふるまい方(=習性としての行動)に変化として現れないような学びは「学び」とは言えません)
フェルデンクライス昨夏の講義でのロビー・オフィアーさんのこの言葉についてよく考えます。(2008.03.09付)
この言葉を聞いたことで、
- 学べるのは『学校』という場だけ
- 『学ぶ』とは語学を習ったり試験に合格する目的ためのもの
- 知識を増やすことが『学ぶ』こと
という風に考えていた自分に気づくことになりました。なんと狭い所に『学び』を閉じ込めてきたのでしょう?
●外国語を習って、聞いたり話せるようになったけれど、実際に外国人との会話ができなかったら…?
●資格試験に合格したけれど、それを仕事の場面他で活用しなかったら…?
●講義を聞いて、大いに感心し納得したけれど、実践しなかったら…?
●FI・ATMレッスンを受けて「ああ、気持ち良かった」けれど、自分の動きを内側から観なかったら…?
私にとって、この学びの定義は、「学び」に抱いていた変な堅苦しさを吹き飛ばしたと同時に、私自身の「習慣的な行動・反応」への注意を喚起し続けています。
学ぶことで、ふるまいに変化が現れ、行動が変わり、習慣が変わり、自分が変わっていく。自分のあちこちに「学びしろ」(「のりしろ」「縫い代」みたいな余白)があることに気づくと、「変わる」ことがたいそうなことでなくなります。