「『わからない』という方法」(橋本治/著、集英社新書)
橋本治さんの「わからない」という方法 (集英社新書)に
『バレエダンサーの熊川哲也さんが子どもの頃「わかんない」を連発していた』
と書いてありましたよ
とメールが来ました。
以前、この本を読んだことがあるのですが、本の最後の最後に書いてある
その代わり、「自分の身体は頭がいい」と思っている。私は自分の脳はあまり信用していないが、自分の身体性だけは、全面的に信用しているのである。信用して、「俺の身体は頭がいい」と、マジで思っている。
(「『わからない』という方法」橋本治/著、集英社新書、250頁)
ばかりが頭に残っていました。
(だからでしょう、内田樹さんの私の身体は頭がいい (文春文庫)を題名に惹かれて買っています)
ですから、熊川哲也さんの「わかんない」は記憶になかったのです。
そこで、本を買って読み直してみると、
フェルデンクライスメソッドに関係することばかりじゃない!?(*本の前半部分です)
と気づきます。
- 「わかる」と「わからない」
- 「学習」と「教育」
について書かれているのが、前半の
- 第一章「わからない」は根性である
- 第二章「わからない」という方法
です。
その中でも
企画書に必要なものは、上司を驚かせる意外性と、上司を納得させる確実性である。
(「『わからない』という方法」橋本治/著、集英社新書、43頁)
を
(フェルデンクライスメソッドの)レッスンに必要なものは、
クライアントを驚かせる意外性と、クライアントを納得させる確実性である。
と読みかえて一人勝手な納得をしていました。
他にもこの二つの章には、フェルデンクライスを学ぶ、伝える、教える時に考える(頭をかかえる、悩む)ことが書いてあります。
- 「教える側」と「教えられる側」について(90−91頁)
- 「他人のやり方」と「自分のやり方」、「マスターする」について(120−122頁)
- 「学ぶ」と「生き方」について(130頁)
- etc… (頁は全て「『わからない』という方法」橋本治/著、集英社新書から)
私自身が抱えているフェルデンクライスメソッドへの「わからなさ」「わかりにくさ」と、
指導者養成コースで学んでいること(=人に教える、レッスンをする側になる)との
ギャップのほんの少し埋めるような内容です。
最後に、
熊川哲也のすごさは、「次の日にはできるようになっていた」ではない。自分の理解の届かないところを確実に発見して、それに対して「わからない」を明確に確認していたこと――「わからないの掘り起こし」である。
(「『わからない』という方法」橋本治/著、集英社新書、104頁)