フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

人のふり見て我がふり直すためには

人のふり見て我がふり直せ
他人の性行の善悪を見て、自分の性行を改めよ。
(性行=日常の性質とおこない)
(「広辞苑」より)

フェルデンクライスのレッスンをしていて、ブログを書いていて思うことは、
先ず自分が何かを感じて、その結果
A)体を動かす(筋肉を緊張させるetc)
B)考える
につながっているなあ、です。
感じる→動く→感じる→動く…です。脳への出入りです。(「入り出」ですね)


「卵が先か鶏が先か」でいうと「感じるのが先、動きは後」だと思います。


フェルデンクライスのグループレッスン(ATMAwareness Through Movement=動きを通した気づき)は、動くことが中心のように見えるかもしれませんが、「動き」はあくまでも“きっかけ”です。「感じる」ことが重要なレッスンです。ぐるぐる回る脳の入力出力回路から「感じる」にスポットライトを当て、それを「動き」に変換し、また「感じ」→「動き」→…を繰り返します。


ブログを書く場合、自分が思ったり考えたりしたことを書いているようですが、実はその手前に「感じる」がある、と最近思っています。何かを感じて、そこから「思う」「考える」が生まれると。


そこで冒頭の【人のふり見て我がふり直せ】です。
他人のふりを見ているだけで、我がふりは直せません、直りません。
・他人のふりを見て何かを「感じ
・感じたことから「考え
・考えたことから「行動する」(=「直す」)
ですから、「他人のふり」を視覚情報として脳内スクリーンに映している(見る)だけでは、何も起こりません。広辞苑にも書いてある通り「他人の性行の善悪を見て、…」です。「他人の性行を見て、…」ではありません。「善悪を見て」です。「善悪」を見て取れなかったら(何かを感じられなかったら)、「直す」という行動は起こらないということです。(もちろん善悪を見ても、行動を起こすとは限りませんが)


このことを思ってから、【人のふり見て我がふり直せ】なんて自分にも他人にも簡単に言えるものじゃないな、と考えています。