フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

声の不思議

朝、托鉢をされる僧侶の方々の声が聞こえてきます。声しか聞かないので、どちらのお寺の僧かわかりません。3〜5名ほどで托鉢されているようです。
窓を閉めていても、よく聞こえる大きな声です。

托鉢僧の声

小さい頃は、彼らの声を聞くと「祈ってくれたはる」「守ってくれたはる」と安心感をおぼえていました。
それが、いつの頃からか、彼らの声を聞いてもそうしたことを感じられなくなりました。私が大人になったからでしょうか? そして、ここ数年、「大きな声」があまり心地よいものでなくなってきています。喉から出ている、首に緊張感のある、苛立った感じもする声を托鉢で回られる方々の中に感じるようになったからです。3〜5名の方々全員がそういう声ではありませんが。


声から抱くイメージは
  ・「もっと大きな声を出すように!」と指導されている
  ・托鉢で回っているのに、誰も玄関から出てお布施をしない
  ・托鉢を終えて、早く帰ろう
です。
声を耳にしている私が居心地悪くなるというか、叱られているような、いらいらしてくるというか。彼らの声が遠のいていくと、ほっとするのです。

どこから、どう、声をだす?

「はい」というたった二音の返事・相づちでも、その声をどこから出すかで、それを聞いた相手の反応、その後の会話が違ってきます。
  ・口先だけの「はい」
  ・かん高く、浮いた「はい」
  ・胸から出る「はい」
  ・肚から出た「はい」


認知症のお年寄りとお話をして、患者さんとの会話、友人や両親、店の人、電話の向こうの人…【肚から出た】【無色透明の】【作っていない】「はい」から始められると良いようです。

“言葉未満”でも、人を安心させたり、いらだたせたり、落ち着かせたり、不安がらせたり…ができる人の声。おもしろいです。