赤ちゃんなら当たり前
昨年(2008年)の夏、FPTP京都*1の講師として来日されたハヴァ・シェルハヴさん(Dr. Chava Shelhav)のお話の中に
毎日、私自身がATMをするけれど(=グループレッスンの動きをする)
毎日新しい発見がある
という言葉がありました。
その時は「ふ〜ん、そういうものなのかなあ〜」と思っていました。
そんな私でも、ハヴァさんの言葉に納得し始めています。
「確かにそうかもしれない」と。
肋骨の存在
肋骨と会話が出来るようになって以来、朝晩のレッスンがおもしろくなってきています。「肋骨と会話」前後ではちがう私のようです。
【肋骨と会話】前:身体が平面
【肋骨と会話】後:身体が立体化しつつある
ヘレン・ケラーさんが、「物には名前がある」ということに気づいて“Water!”と叫ぶ場面を連想する位、【肋骨と会話】は私の中では大きな出来事です。
それ以後は、もう私の脳や体が、私の意志(意識)とは別物のように触手を伸ばしてあれやこれやと試しています。その実験の様子を眺めて、そこから私が学ばせてもらっているような感じです。
おもしろさが変わる
昨日の夜寝る前にしたレッスンを今朝もう一度しても、「全く別のレッスン」のように感じている私がいます。レッスンの内容は覚えていても、私の感覚にとっては「新しいレッスン」です。
以前なら、1週間前にしたレッスン、いえ1年前にしたレッスンでも(上手く動けた、動けなかったに関係なく)、こうしたおもしろさは感じませんでした。
これまで感じていたのは「偶然のおもしろさ」で、赤ちゃんや小さい子どもの“喜び”みたいなものかもしれません。それはそれでとても素敵なのですが、ここ最近感じ始めているものは「必然のおもしろさ」とでも言ったらいいでしょうか。
楽に動けないにはワケがあり、楽に動けているつもりでもまだまだ改良の余地がある。ちょっと「大人風のおもしろさ」です。
体を通して、動きを通してこんなにたくさんのことを感じ考え、そして変わっていくとは思いもしませんでした。
これは、赤ちゃんや子どもなら当たり前にしていることなんでしょうね。
発想の転換をしたいなら
自分を変えたいなら
まずは体の動きを通してやってみよう〜♪♪
*1:FPTP京都:
京都フェルデンクライス指導者養成プログラム
Feldenkrais Professional Training Program Kyoto
http://www.feldenkraiswest.jp/fptp.html