フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

文面だけじゃない〜ふるまいから気づく

わかったからといって
(文章・作文に)書けるわけではない。
新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)
(※お断り:今、手元に本がないので、正確ではないかもしれません)

たとえ「わかったつもり」「わかった〜!」なことでも
なかなか言葉にできない私にとって、
わかっていないけれど、なんだかモヤモヤする
とにかくなんだかヒッカカル」
な内容を人に伝えるのはもっともっと難しい。


面と向かって話しているなら、身ぶり手ぶり表情etcを総動員して
少しは伝えることができるかもしれません。

それが、メールとなったら…。

虫食いメール

「レイコさん、なにを言いたいんだろ?(さっぱりわからない)」で
終わるかもしれない私の「虫食い」メールを
メールを受けとってくださった相手の
想像力や思いやる気持ちから、虫食いそこかしこを埋めて、
そこから私に返事を書いてくださる。
(そして、また私が虫食いメールを送る…)


すると、やりとりしたメールを見た人にとっては
「この人たち、噛みあわないやりとりしてない??」
といった内容であったとしても、
私の中の何かが埋まっていくのです。
立体パズルのピースがはまるように。

文面だけでない

ある方と「往復書簡〜メール編」をしたことで、
人は、その書かれた文章だけから
何かを感じたり考えたりするのではないことを改めて思いました。


メールに、私への具体的なアドバイスや答えが書かれていなくても
メールのやりとりという行為や、メールの文章全体を通した
その人のふるまいから、
長く私の中にあった、言葉にならないモヤモヤやヒッカカリが
ふっと解ける(溶ける)瞬間を体験しました。
(解ける「糸口」が見つかった)

大切にされること

人(他人)から大切にされること、大切に思われることが持つ力は
本当に不思議です。
背中をポンと押す、といった何か方向性ある力でなく
私を芯から支える力を持っていると感じます。
私を押し上げることも、私を引っぱることもしない。
でも、そこに在る。


それらが在ると感じることができたら、みずから変わることができます。


感謝。