フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

「私の」体験でしかない

これまで、私はフェルデンクライスの個人レッスンを受けてきて


  ・深い海に潜って遺跡を見つけたり
  ・左手が「私がやる!」と主張したり
  ・旅館の女将さんになったり
  ・モデルに変身したり
  ・肩で風切って歩く男性になったり
  ・透明で分厚い膜に包まれたり
  ・薄ボンヤリさんになったり
  ・心穏やかになったり
  ・etc…


いろいろ体験(感覚の変化)していきました。


そうした体験が面白くて、自分の体験や感覚を
ラクティショナー(レッスンを指導する人)に伝えるのですが…
(知人・友人にも話します♪)

体験や感覚を伝えようと、アレコレ嬉しげに話す私を前にして
戸惑ったようなプラクティショナーやトレーナーの表情。


やっと気づきました。 それらは
「私個人の体験」でしかなく、伝えようがない種類のものなのだと。


先日、個人レッスンをした時
レッスンを受けてくださった相手に何か気づきがあった様子と
私がしたレッスン内容とのギャップから理解しました。
(私はレッスンで「なにもしていない」に等しいのに、
相手は何か「大きなことに気づいた」)


レッスンを受けた(参加した)人が、何に気づき、何を学ぶかは
誰にもコントロール・予想は出来ず
そして、気づきは「その人のもの」でしかない。
そして、同じ体験は二度と起こらない。
(似たような体験はあるかもしれませんが)


レッスンを受けた人、レッスンを指導する側どちらにも
「気づき」や「学び」そして「遊び」があるフェルデンクライス・メソッド
おもしろいです。