「過ぎてる」か「過ぎてない」か
がんばっている人が聞いていたら申し訳ないんですけれど
「がんばらなくていいんじゃないかな」っていう気がするんですね。
がんばったおかげで自分の中に宝物ができたっていう思いは
ないんですよ。僕には。
損したなって。がんばらなきゃ良かったって。
なんか思うんですよね。
確かに僕なりに励んできたところはあるんですけれど
こういうことですかね「励みすぎた」って。
励みすぎた部分、「過ぎたるは…」っていう部分は
失敗しちゃったなって思いますね。
わかんないですもんね、「過ぎてるか」「過ぎてないか」は。
今となって振り返ってわかることなんですが
もうちょっと前に気づきたかったなっていうのがありますね。
…
あきらめがついたってことを言いましたけれど
がんばればできるっていう思いが
やっぱり若い頃はあるじゃないですか。
がんばっても出来ないんだって、
自分の肉体について感じたときに
それを吹っ切れますよね。
それがすごくいいなって思います。
財津和夫さんのお話の中の
「がんばったおかげで自分の中に宝物ができたっていう思いは」
の後“間”があきます。
これまでの話しの流れから想像する言葉は「ある」です。ところが…
「ないんですよ。僕には。」
こうした言葉の背景(土台)に「肉体」が関係していることが
その後のお話からうかがえます。
わかんないですもんね、「過ぎてるか」「過ぎてないか」は。
(同上)
これは、私がフェルデンクライスのレッスンを受けていて感じることです。
自分にとって、自分の身体にとって「過ぎている」「過ぎていない」
意外とわからないものです。
自分のことだから分りそうなものだけれど…
実はわかってないし、わかんない。
それでもレッスンを重ねていく中で
「もしかして、もう少しわかるようになるかも」と
感じ始めています。
「がんばらない」じゃなくて
「要らないがんばりを減らす」ことができたら
「過ぎてる」「過ぎていない」の違いに気づくことができたら
もっと楽しくなるかもしれません。
そうしたことを、レッスンを通して考え始めるところが
フェルデンクライス・メソッドのおもしろさです。
■NHKラジオ深夜便「大人の生き方〜財津和夫」
(2013年3月3日放送)
2013年4月9日までストリーミングで聞くことができます。
http://www.nhk.or.jp/shinyabin/jyoyou.html