フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

ちょっと待つのだ



おしゃべり/会話をするつもりでいても
相手の/私の気持ちの有り様によってそうならないことがあります。
双方向にならず、一方通行。
お互いがボールを投げるばかりでキャッチしない。


運動会の玉入れのような感覚でしょうか?
相手に向かって投げているつもりなんだけれども
玉の向かう先は頭の上にあるカゴ。
うまくいけばカゴに入ることもありますが
たいてい玉は変な方向へ飛んでいくか、時々自分の頭に落ちてきます。
お互い「私が話したい!」が同じくらい強いと玉入れになります。


では、話し手と聞き手に分かれていればいいのか?
話し手は、聞き手に向けて玉を投げる
聞き手は、話し手方向にカゴを向ける
これがないと玉入れ状態になります。


電車の中で、病院の待合室で、通学路で、町内の曲がり角で…
年齢問わず自分自身も含め、玉入れは展開しているな…と感じます。


玉入れのカゴは、相手への/相手の話への関心なのだと思います。
でも「ただのカゴ」になっていたら会話にはならない。
会話はキャッチボールに例えられますが
思い出すのはキャッチボールの相手次第で楽しさが変わった経験です。
自分の投げたいボールを投げる父と
私の力量を見ながらいろいろなボールを投げてくれた近所のおじさん。
「手加減」というより「加減」という視点の有無
関心がどこに向いているかを感じたキャッチボール。


私自身の会話への態度を観察していると
自分の心身の状態がそこに透けて見えて、ハッとします。
ちょっと待てるかどうか。その「ちょっと」がバロメーターです。