フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

フェルデンクライスを気に入った理由(2/3)

フェルデンクライス・メソッドの何を私は気に入ったのか?(ATMレッスンを受けて)

  • お手本がない
  • 自分のペースで進められる
  • 「○○しなければならない」「△△であるべき」がない
  • 頑張らなくてよい
  • 単調な繰り返しがない
  • 筋肉強化のための動きではない
  • 「○○しなければならない」「△△であるべき」がない

・「背筋をピンと伸ばさないといけない」
・「股関節を柔らかく動かすべき」
・「息を吐きながら動くべき」
・ ……
といった内容の指導がない。レッスン中よく聞くのが
これが正しい、という一つのことはありませんからね
お手本が示されないことと同じように、唯一の「正解」もないらしい。
「今の自分の体にとっての動き方を探る」ことを求められる。
「今の体」なので、明日はまた違う体になっている。今日は腰が少しだるい体かもしれない。明日は、腰はおさまり、肩こりを感じるかもしれない。その時どきの自分の体に応じて動けば良い。何かの指導・指示に従い、それらに沿う(沿おうとする)ことに慣れている私は、講師の「○○した方がいいですね」という優しいアドバイスでも簡単に「縛られて」しまう。これが「××ねばならない」「△△あるべき」といったものだとたまらない。金縛りに遭ったようになる。他人から示されたものさしではなく、自分の体というものさしで動けることが良い。


  • 頑張らなくてよい

頑張りが善しとされ、頑張ることを求められ、頑張ると褒められる。「頑張る」「頑張れ」でひとくくりにされる。
そんな行動・考えの習慣にどっぷりつかっている私にとって、レッスンで聞く「頑張る必要はありません」は新鮮だ。しかし習慣とは恐ろしいもので、「頑張っている」つもりはないし、頑張らないようにとしていても、無意識に頑張っているらしい。もうはっきり言って「反射」である。
モーシェ・フェルデンクライスが組み立てたATMレッスンは、本当に不思議で頑張ればがんばる程、動きにくくなるし、疲れる。筋力でねじ伏せても、動きに滑らかさがなくなってしまう。ATMを成功させるコツは「頑張らない」ことなのだ。


― その3 ― へつづく