フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

みんなが良き聞き手

昨日のフェルデンクライス勉強会に現れた空間は不思議でした。ATMレッスン(グループレッスン)をした後におしゃべりをしたのですが、特に意識せず互いの呼吸を読みながら、静かに時ににぎやかに会話が進んでいく。内容は「おしゃべり」と「会話」「対話」をミックスして割ったようなものなのですが、そのトピックにはいろいろな示唆を含んでいたり、とても面白かったり、また「考える種」になるというものでした。誰か一人が話し続け周りは皆聞き役ということはなく、時計で測っていたようにある一定量を話すと次の誰かが話す、という展開です。

  • 人の話をさえぎらない
  • 人の意見を否定しない
  • 皆が「話し手」であり「良き聞き手」になっている

こうしたことが揃ったら、司会者や進行役がいなくても、話の内容が深まり、そこから何かを得たり、自分の考えを見直したり、気づいたりといったことが自然とできることに驚きました。また、あせりや不安、大きな違和感、重心が上にあがったような感じ、がその雰囲気の中に出てこなかったことも不思議でした。昨日、お昼ご飯を忘れて皆が夢中になって話していたあの場にあったのは、静かさ・安心・穏やかさ・気づき・学び、だったと思います。


フェルデンクライスのFIレッスン(個人レッスン)を受けた時にも感じましたが、「安心」「穏やか」であれば、「探索」exploreができ、思いもかけないものを見つけることができます。そうしたことは、こうしたグループでの活動でも当てはまるようです。そして、同じように

  • 個人の内面でも、2人の間でも、3人以上が集まっても、
  • 夫婦・恋人間でも、親子・家族間でも、
  • 勉強会仲間でも、クラスの仲間でも

あてはまるのだと思います。
私たちは普段、親しい者どうしでどれだけ安心して穏やかに話しをしたり聞いたりできているのでしょう?「今忙しいから、あとで」「わかった、わかった」「もう、何べんもそれ聞いたよ」が口癖のようになっていないでしょうか?相槌は打っているものの、態度で「口癖」を表している場合もあります。
昨日の勉強会での、皆の落ち着いた表情を見ていると、「安心できる場」を生み出すものは何か?ということを考えさせられます。