フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

気づきは突然やってくる

フェルデンクライス・メソッドには2種類のレッスンがあります。グループレッスンのATMと、個人レッスンのFIです。
   ATM(Awareness Through Movement : 動きを通した気づき)
   FI(Functional Integration : 機能的統合)
個人レッスンの“FI”の名称に“Awareness”(気づき)は含まれていませんが、もちろん「気づき」と関係します。プラクティショナー(=フェルデンクライス・メソッド指導者)が出す動きの指示に従って自ら動きながら「気づく」か、プラクティショナーが触れる手とそこから生まれる動きを通して「気づく」かの、『言葉を通して』か『手を通して』かの違いです。
辞書(ジーニアス英和辞典)によると

   awareness=(…と)知ること、自覚する(認識する)こと

とあります。


この「気づき」ですが、突然やってくることが多いように最近感じています。以前なら、「気づき」といえばATMレッスン中でしたし、セグメント中で受けるFIでした。(つまり、それ以外のシーンで「気づき」とは無縁だったのです)それが最近、仕事中、家事をしながら、歩行中、勉強会で、etc…いろいろな動きをしている時に、ほんの少し自分の体に意識を向けたり、動きに小さな実験を加えたりすると気づきがあります。気づきに大小があり、内容も様々ですが大変おもしろいです。

子供の頃、「探険」と称して町内をあちこち歩き回り、自分なりの地図を作ったり、近道を探したり、花や飼い犬・井戸・駄菓子屋・お地蔵さんを見つけたことと似ています。好き勝手に試行錯誤しながら探っていると、思わぬものを見つけます。そして、傍から見るとなんでもない・どうでもいい・つまらないことなのですが、当人にとっては「大発見!」なのです。(「大発見」の内容や、発見に至る行動によっては、きつく叱られます)
子供の頃の探険は、何かを生み出したわけではなく、元々そこにあったものに気づいただけのことです。それでも、それらと自分との間に関係性がついていくことが嬉しくて飽きずに動き回っていたのだと思います。

今、私の日常生活中での「気づき」は、子供時代の「探険」と同じです。元々存在しているものを体の中や動きの中に見つけるだけのことです。そして子供と同じように、何を見つけるかは予測がつかないのです。
(この「気づき」がフェルデンクライス・メソッドでいうところのものかどうか、自信ありませんが)