フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

ノートのとりかた(その2)

「心をひらく体のレッスン」に次の文章がある。

心をひらく体のレッスン―フェルデンクライスの自己開発法

心をひらく体のレッスン―フェルデンクライスの自己開発法

たとえノートをとったとしても、あまり役に立たないでしょう。なぜなら、書いている間は聞いていないからで、もう一度読み返さない限りよくわかりません。読み返してみると、話を聞きながら書いたものだから、わたしがしゃべっているときだけ意味のあるような書き方になっているのに気がつくでしょう。後になると、なにを書いたのかわからないということになります。


そもそも、私はこれまでずっと、「書く内容」よりも「いかにノートを美しくとるか?」に力を注いでいたから、自慢じゃないが書いた内容なんてほとんど覚えていない。(おかげで「見やすいノート」が出来上がっていたが)
短期記憶をフル活用して、毎授業の内容をそこそこ整理しながら、板書を書き写し、自分でまとめた要点を書き込んでいく。だから、外部メモリー(ノート)に記録はあっても、脳の中に「保存」していないから、試験で「???」となるし、ノートを読み返しても「これ私が書いたの??」となる。
何度、担任に「勉強の仕方がわかっていない」と指摘をされたことか。その度、私は「???」、親は「・・・」。この状態でずーっと生きてきたのである。

それが、FPTP京都第1セグメント初日(2007年4月28日)、上記本の内容につながるフランク・ワイルドマン博士の一言

  • 今日一日、何を学び、気づき、発見しましたか?
  • このメソッドを知らない人に、今日一日のあなたのAwarenessを語るとすればどういう言葉にしますか?
  • 自分の家族に語るように言語化し、それをノートに書いてみてください

で、ノートのとりかたに対する意識が変わった。
正確には「別に(講義中に)ノートをとらなくてもいいんだ」という解放感である。つまり、これまで私の中にずーっとあった「授業(講義)中、ノートはとるべき」という根拠のない義務感から解放されたのだ。

これをコース初日に得られたことは本当に大きい。
講義・実技に対する姿勢が変わり、脳の使い方が変わったのだから。
講義を聞いて(入力)→脳で整理し→ノートに書き(出力)・・という【工程】がなくなった(機械的でなくなった)おかげで、脳内でぐだぐだぐだぐだする時間が生まれた。この「ぐだぐだ」は、言葉になっていない混沌とした、あるいは言葉になりかけの発酵している脳の状態。一日の講義終了後に「学び・気づき」をノートに書き出すと、この脳内発酵をうまく進むのではないか?と淡い期待をしている。
こうして書いたノート(落書き帳)を読み返してみると、断片的な言葉が書き連ねてあっても、何が書いてあるのか分かるし、講義のシーンも思い浮かぶからおもしろい。(他人が見たら、全くちんぷんかんぷんだろう)
ノートをとる義務感から解放された結果、脳内で「学び」のための空きスペースが生まれた、と感じている。「ノートのとり方」を質問してくれたクラスメイトに感謝している。