フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

「学ぶ」とは?

フェルデンクライス・メソッドのキーワードのひとつに「学び」(learn・learning)がある。京都フェルデンクライス指導者養成コース(FPTP京都)では講師から何度も

  • 「この前のセグメントで、皆さんは何を学ばれましたか?」
  • 「今日一日学んだことは何か?を考えてください」
  • 「この一年間、あなたは何を学び、何が変わりましたか?」

といった質問が受講生全員に、また個人的にも向けられる。

これらの質問に対し

  • 「○○が勉強になりました」
  • 「△△といった考えが新鮮でした」  

と私達が答えると

  • 「それは感想ですね?」
  • 「そういった印象を受けた、ということですか?」

という風に、暗に「それは【学び】とは別のことですね」と返される。


FPTP京都第2セグメント最終日(2007年8月15日)に講師のロビー・オフィアー氏(Mr. Robbie・Ofir)がおっしゃった

What is learning?
(学びって何でしょう?)
Learning that is not the result changing behavior, is not learning.
(ふるまい方(=習性としての行動)に変化として現れないような学びは「学び」とは言えません

ことともつながる。

ロビーさんの話を聞いて、私は考え込んでしまった。
私は「学ぶ」と「記憶する」をごっちゃにしている。私にとって授業を受け→新しいことを学び→記憶し→試験を受け→合否が出て・・ということが「勉強・学習」だったからだ。

春・夏とセグメントで、非日常的な空間・時間に身をおき、新しい事に毎日触れ、たくさん何かを学んだ気になっていた。では、日々の私の行動に何か変化があったか?というと、何もない。
セグメント期間中は非日常的でも、終わればいつもの仕事・生活にもどる。そして、脳も身体もあっという間にいつもの物の見方・考え方、動かし方に当然のように戻る。これなら映画を観て「すっごく感動したぁ〜!」と口にしていることと大差ない。
FPTP京都での講義・実習は、普段の仕事・生活・感覚と全く違うので、正直、頭も身体も大変混乱する。混乱があるからこそ「変化として現れる学び」につながる可能性も出てくるのだろう。だが、習慣の力は強く、せっかく灯った小さなロウソクの火を簡単にフっと吹き消していく。

フェルデンクライス・メソッドでは、

  • ATM(Awareness Through Movement・動きを通しての気付き)
  • FI(Functional Integration・機能的統合) によって

身体の動き・感覚を通して、それまで脳になかったものを、脳に取り込み、再び身体で出力する。そういう入力と出力の循環を起こすことを目指すメソッドなのだと思う。だから、脳に取り込んだだけではプロセスの途中でしかなく「身につく」「学び=習得」に至って輪が完成しぐるぐる回り始める。