フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

「学びたい」と思ったのだから

先日、FPTP京都(フェルデンクライス指導者養成コース)のクラスメイトと話をした。FPTP京都で1年が経とうとしている今、互いが感じていることを語り合った。

  • 受講前や開講当初に想像・感じていたことと違う面が現れ、戸惑い・迷い・混乱を感じている。
  • 何か感じるものの、漠然としていて、言葉にならないし、できていない。
  • 果たして、受講前に予想・期待していたことを今後学べるのか?
  • お金と時間が必要で、客観的にも主観的(内面的)にもリスキーと思い始めた。
  • このままFPTP京都に参加し続ける意味・価値があるのか?

という所まで話が進み、顔を見合わせてしまった。
「こんなはずじゃなかったのに」である。


漠然としたものを感じているばかりで、言語化できていないことに一因があるのかもしれない。(悲しいことに、「感じる」だけでは脳は「整理」ができないらしい。言葉に変換してやらないと、処理のまな板に載らないのだ。)
新しい何かを学ぶ時、戸惑いや混乱はつきものなのだろう。「新しい」のだから、初めてだし慣れていない。


以前、5日間や10日間のワークショップでフェルデンクライス・メソッドに触れ学んだ時も戸惑った。また、これまで他の何か新しいことを学んだ時も混乱した。ところが、今回FPTP京都で感じる「戸惑いや混乱」は何かこれまでと違う。複雑で入り組んだ戸惑い。普段の生活での感じ方にも影響する「戸惑いや混乱」。
クラスメイトと表現した通り、底なし沼みたい、果てがない感じ、ブラックホールを覗き込んだよう、なのだ。本当に「こんなつもりじゃなかったのに」だ。
この話題に目処も結論もつかないまま別れた。


で、後日ふと思い出したのだ。互いの戸惑いをひたすら言い並べていた時、クラスメイトが口にした言葉を。
「学びたいと思って、(FPTP京都へ)参加を決めたのに…」

戸惑いが大きくなり過ぎて、初心を吹き飛ばしていた。
私は、フェルデンクライス・メソッドそのものを学びたいと思っていなかったかもしれない。もしかすると、プラクティショナーになりたいのでもないのかもしれない。しかし、このメソッドを通して「『何か』を学びたい」と思ったから受講を決意したのだ。「学びたい」のだから、目の前が沼でも、自身が穴の中にいても、それはもう仕方ないことなのだ。(←これで、1月末に2年目の受講料を一括払いした後も、うじうじしていた気持ちを多少なりとも払拭できるかな?)


それにしても、希望や喜びもふくらみやすいが、戸惑いや不安も同じようにとても簡単にふくらんでくれる。そして、どれもふくらみ過ぎると視界が悪くなり、目も曇る。