フェルデンクライス日記かもしれない

フェルデンクライス・メソッドについて感じたこと考えたことも書いています。

冗談じゃない。百のものはここにある。

今開かれている展覧会【驚くべき学びの世界展in京都】で見た
素敵で考えさせられる詩。
(書き写しまちがいがあったら、ごめんなさい)


驚くべき学びの世界展in京都】公式サイト→こちら
展覧会の様子(参考):ワタリウム美術館サイトこちら

冗談じゃない。百のものはここにある。


子どもは
百のものでつくられている。
子どもは
百の言葉を
百の手を
百の思いを
百の考え方を
百の遊び方や話し方を持っている。
百、何もかもが百。
聞き方も
驚き方も愛し方も
理解し歌うときの
歓びも百。
発見すべき
世界も百。
発明すべき
世界も百。
夢見る
世界も百。
子どもは
百の言葉を持っている。
(ほかにも、いろいろ百、百、百)
けれども、その九十九は奪われる。
学校も文化も
頭と身体を分け
こう教える。
手を使わないで考えなさい。
頭を使わないでやりなさい。
話をしないで聴きなさい。
楽しまないで理解しなさい。
愛したり驚いたりするのは
イースターとクリスマスのときだけにしなさい。
こうも教える。
すでにある世界を発見しなさい。
そして百の世界から
九十九を奪ってしまう。
こうも教える。
遊びと仕事
現実とファンタジー
科学と発明
空と大地
理性と夢
これらはみんな
ともにあることは
できないんだよと。


つまり、こう教える。
百のものはないと。
子どもは答える。
冗談じゃない。百のものはここにある。


ローリス・マラグッツィ(Loris Malaguzzi)/作
佐藤学/訳

この詩を読んで、私の中で起こった会話
  「奪われてなんかいない」
   (じゃあ、どこにあるの?)
  「手の平から落ちただけ」
   (落ちてどこにあるの?)
  「たぶん、足元あたりかな…」
   (そうなの?)
  「ちがう。わたしのどこかに埋もれているだけ♪」
  「だから、掘り起こせばいいんだ♪


埋もれているというより、
百のものでできている私が何かでぐるぐる巻きにされている
そんなミイラのようなイメージです。


ぐるぐる巻きだから、手足は動かしにくいし、物を見るのだってたいへん。
しかも、包帯で巻かれているだけならいいけれど、
接着剤とか他のものと一緒に巻かれていたら…ちょっと大変。
身動きすらとれないかもしれません。


このぐるぐる巻きをほどいていく作業が必要です。
(簡単じゃないけれど)
誰か(何か)に「奪われ」失ってしまっているわけではない
このことに気づいたのは嬉しいことです。

大人も答える。
冗談じゃない。百のものはここにある。