私のカラダは頭がいい ‐「わからない」という方法、橋本治/著、集英社新書
昨日、橋本治さんの「『わからない』という方法」(集英社新書)を読み直して
はどれも違うことに気づきました。
◆橋本治さんの場合
私は、自分の脳はあまり信用していないが、自分の身体性だけは、全面的に信用しているのである。信用して、「俺の身体は頭がいい」と、マジで思っている。すべての経験と記憶のストックは、私の身体にキープされているからである。「自分の身体は何と役に立つ身体だ」と思っていることだけは確かである。
(「わからない」という方法、橋本治/著、集英社新書、第4章 結論:身体が「頭がいい」250頁)
◆内田樹さんの場合
「ウチダの身体」は「ウチダの頭」よりはるかに賢い。
恐ろしいほど賢い。
これは自信をもって断言できる。
頭が理解できないことでも身体が理解できる、というのが私の特技である。
だから私本人は「バカ」のくせに、私がつねに自信をもって「あいつはバカだ」と断言することができるのは、私が他者の知性をつねに「身体」で判断しているからである。
(私の身体は頭がいい、内田樹/著、文春文庫、171−172頁)
◆私の場合
ロビーさん(Mr. Robbie Ofir)の話にあった「あなたの中の”wisdom”を…云々」が私の身体の中にもあるんだな、と思えた。
生まれてから獲得したものではない、折りたたまれ、たくわえられてきた身体の叡智(wisdom)。身体ピラミッドの頂点に君臨しているかのように振舞う「脳ミソ」だけれど、ロビーさんのFIを受けて思った。
- 脳と他の臓器(身体)の間に優劣はないな
- カラダの方が頭より賢いかも
- 脳ミソよ、えらそうにするな!
(2008年1月ロビーさんのFI(フェルデンクライスメソッド個人レッスン)を受けての感想から)
◆橋本治さんは、記憶する「身体」
◆内田樹さんは、他者の知性を判断する「身体」
◆私は、智慧をもつ「カラダ」
で、中身は違っても、結局 身体は頭がいい